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人と会うということ

その昔、自分のコミュニティ以外の人と会う、ということは、特別なことだったかもしれない。
縄文の昔から日本列島では広く交易があったといわれているが、自分が通常暮らしている人と違うグループの人と会うということは、かなりイベント的なことだったのではなかろうか。

文字がやりとりされるようになって、文(ふみ)が届けられるようになっても基本はあまり変わらない。
長い平和を背景に、人々の往来が安全にできるようになった江戸時代末期でも、人との出会いは特別なことだ。
本居宣長と賀茂真淵の生涯でたった一度だけの出会い「松坂の一夜」は宣長の人生を変えた。

人の往来は交通網の発達でさらに自由になり、人と人が会うことが当たり前の世の中になっている。
電信から電話へ、そしてインターネットへの変化は、人と人を簡単につなぎ、その距離がなんだか近くなったように感じているが本当だろうか。

今回の新型コロナ騒ぎで、人と会うことをできるだけ避けましょう、と言われている。
ワークショップや会合はのきなみ中止で、まちづくりの仕事をしている身では、やることがない。

しかし、社会全体が機能不全におちいり、パニックになりそうな中で、改めて「人と会うこと」ということを真剣に考える機会になっているように思う。

つまり、人との出会いは、本当に大切な事に絞ってもなんとかなるのかもしれない、とあらためて思い始めている。
毎週のようにどこかでイベントが開催され、人が集まって何かを語りあい、情報交換をして知ったような気持ちになる。そして、テレワークとか、ネット会議とかいろいろあって、SNS上で何百人も「友だち」がいる。
昔、友だちは、数人、多い人でも十数人だったような気がする。

直接人と会う大切さというのは、一期一会、大切な人と大切な時間を過ごし、その瞬間の出会いで得られたことを大切にすることだ。
決して交流が(そしてイベントやワークショップが)不要だと言っているのではない。人と会って過ごす時間のかけがえのなさを、もっとかみしめた方が良いのではないだろうか、ということが言いたかったのである。

もちろん、ワークショップがなくなるとプレイスはとても困ったことになるし、感染した人の快復と、社会の通常化を願うのは当然である。誤解のないように書き添えておきます。

(fuku)

宮地成子のイラン日記4 Youは何しにイランまで?

201905 パシャイさん

 

これまでのイラン訪問は、「NPO法人イランの障害者を支援するミントの会」の依頼で行かせてもらっています。このNPOの代表を務めるパシャイさんは、まだ40代半ばの男性です。

シルベスタースタローン似のイケメンです。顔の彫りが深すぎて怖面にも見えますが、日本語でジョークを飛ばすユーモアと知恵、そしてバイタリティ溢れる人です。(因みに、映画「男はつらいよ」が大好きで、全DVDを持っているとのこと)。

 

パシャイさんは、イランイラク戦争の兵役を終えて、来日しました。

時は90年代のバブル、土木関係の仕事について、10年以上真面目に働いたそうです。「そろそろイランに帰ろうかな」と思った矢先に、大事故が起きました。土木工事で操作をしていた重機の下敷きになってしまったのです。

 

たくさんの輸血をする大手術で、どうにか一命を取り留めましたが、意識が戻った時に知った現実は下半身が全く動かない状態でした。「異国に来て大変な目にあいましたね。でも、助かった命なのでどうか大切にしてください」と、執刀した医師が泣きながら伝えた言葉を、今でも覚えているそうです。

 

退院後、パシャイさんのリハビリが始まるのですが、在宅リハビリを担当した看護師が、NPOの事務局を勤める大澤照枝さんでした。照枝さんは、これまでパシャイさんの思いに寄り添い活動の発展を支えている方です。

 

パシャイさんの リハビリは進み、車いすを使用すれば、自由に外出ができるようになりました。

そんな折、イランの人たちはどうしているのかが、気になってきたそうです。

イランは交通事故が多く、一方でリハビリが進んでいないので、日本では社会復帰できるような状態でも、イランでは家で寝たきりになってしまうこともあることが分かってきました。

そこで、日本から中古の車いすを送る活動を始め、その後、在宅リハビリを伝えるため日本から看護師や理学療法士を派遣し、寝たきりの状態から、自分で食事や移動ができるにはどうしたらいいかを伝えました。

 

しかし、まだ移動ができるのは家の中のことでした。そこで、車いすの人がまちを歩けるよう、日本でバリアフリーやユニバーサルデザインのまちづくりに取り組んでいる人を派遣しようと、発展してきたそうです。

 

私が勤務する《場所づくり研究所PLACE》は、住民参加のまちづくりなら、テーマはいろいろ取り組みます。その中のひとつに、バリアフリーやユニバーサルデザインのまちづくりがあり、お声がかかったといういう訳です。

 

パシャイさんのことは、朝日新聞にも掲載されています。4人目の紹介:絶望を乗り越え「架け橋」に 

ぜひ読んでください!!

https://globe.asahi.com/article/12434499

宮地成子のイラン日記3

「イランに行ったら、ケバブ三昧だ(やった~!)」、と思っていたのですが、良い意味で裏切られました。
訪れる前には想像していなかった、ヨーグルトやザクロやブドウの葉を使ったエキゾチックなお料理の数々がイランにはあるのです。これらのお料理は、長時間炒めたり煮込んだりするものが多く、レストランでは滅多にない、家庭でしか味わえない料理もあるそうです。イランでは「最高のシェフは家庭にあり」という言葉もあると、ある本に書いてありました。私もイランのご家庭で煮込み料理をご馳走になった時、「仕込みから8時間かかった」と聞いて手間のかかるお料理なんだと驚いたことがありました。


イランの家庭料理にご興味のある方は、「イラン式料理本」という映画を是非見てください。DVDにもなっています。映画監督が自分の親戚宅や友人宅を訪ねて「今晩クルーと一緒に来るから、夕飯をたべさせてくれ」といきなり頼み、その依頼にどのように対応してくれるかを撮影したドキュメントです。来客の人数が多くても慌てず家庭料理をご馳走するベテラン主婦や、何時間もキッチンに縛られるなんてまっぴらという若い女性も登場します。台所事情からイラン社会の時代の変化を映し出している、素晴らしい作品です。
ちなみに、私が知っているご家庭のキッチンは広くて綺麗で、ガス台のコンロが5口もついており、そのうち1口はヤカンにお湯を沸かしっぱなしで、いつでも紅茶が飲めるようになっていました。

 

さて、煮込み料理のご紹介はまた今度にして、今回はケバブについてです。ケバブペルシャ料理を代表するお料理の1つですが、このケバブも日本で食べたものとは違いました。
最初にイランでケバブを食べた時は、ドドンと盛られた「本場ケバブ」を目の前に少々興奮気味でしたが、一口食べてみるとスパイスがあまり効いておらず、全部食べ終わってもあっさりで物足らない印象がありました。


後から知ったのですが、イランでは、ヨーグルトにサフランと玉ねぎと塩を混ぜたものに肉を漬け込んだだけのシンプルな味付けのものが主流で、大量のスパイスを使うことは少ないようです。


ケバブの肉は「羊」「鶏」「牛」の3種類。一口大のサイズにカットされたお肉を串刺しにして、炭火で焼きます。肉の部位により、味わいも違います。またひき肉をつくねのように串板に巻きつけて焼くタイプもあります。どれもレモン汁を絞っていただきます。


つけあわせの定番野菜は、「焼きトマト」と「生の玉ねぎ」。玉ねぎはそのままかじりますが全然辛くなく、お肉の脂をさっぱりさせてくれる、なくてはならないケバブの相棒です。焼きトマトは崩しながら肉と一緒に食べますが、これがまたケバブとの相性が抜群なのです。


一番初めは物足りなく感じたケバブでしたが、薄味で素材が生かされているからこそ、味わい深い食べ物だと思えるようになってきたこの頃なのです。(miya)

日々プレイス

誕生日を迎えて

10月28日で58回目の誕生日を迎えた。正月を迎えると数え年で60歳である。

私が子どもの頃は55歳が定年で、60歳まで定年が延びたというニュースがあってもどこの世界の話か、全く関係ないことだった。「村のはずれの船頭さんは、今年60のおじいさん」だったはずで、数え年だったら私と同じになる。え、知らない? そういう童謡があるのです。今60歳を「おじいさん」といえば怒られそうだ。私は、身体も短期記憶もボロボロなので、怒りはしないけど、それでもちょっとだけ違和感がある。
誕生日にはたくさんのFacebookのお祝いメッセージをいただいた。これも現代的で、毎日のように「今日は○○さんの誕生日です」というお知らせが届くから、私にメッセージを送ってくれた方も、おそらく私の誕生日を覚えていてくれたわけではなく、Facebookに教えてもらったのだろう。
私からお誕生日メッセージを送ることはしないけれども、いただいたお祝いには、全員に短くても一言添えてお返事を出すようにしている。
久々に連絡が来た大学時代の友人も、Facebookでの活躍を見ているので何か近く感じる。年1度でも、年賀状で家族の写真が送られてくると、ほっこりする。
年賀状は儀礼的なので廃止すべきという人もいるが、年に1回くらい知り合いの様子を知ることがそんなにムダなことなのか。よくわからない。
年賀状が儀礼的なら、Facebookのお祝いメッセージは何なのだろう。Instagramでの「いいね」は何なのだろう。
狩猟で暮らしていた昔は顔が見える関係のみで社会をつくってきた。その上限は150人というのがダンバー数といわれているもので、人類学者のダンバーさんが提唱した。ヒトの大脳皮質の大きさと関係があるらしい。
社会が大きくなり、文字や通信手段が発達することで、人類はこの数を大きく上回る社会を築いてきた。Facebookも気づくと、あまり熱心な利用者ではない私ですら400人を超えている。年賀状は厳選して250通くらいか。
「まち」をつくっている社会は、当然150人を超えていて、それぞれの人が複雑に関係しあっている。狩猟社会ではその150人がひとつのコミュニティーを形成していたはずだが、今の社会では、私の知りあいの一人がまた別の150人のつながりをつくっている。その友人の一人も自分の150人をつくっている。そうやって関係性はどんどん広がっている。
それをつなげていてなんとかうまくやっているのは、「国」とか「地域」とか「文化」という物語である。私の150人と、となりの人の150人が共有する「何か」は人それぞれであっても、どこか最後には必ずつながるために必要な、共通する何かがあるはずだ。そうでなければ、せっかく面倒な年賀状がなくなったのに、SNSでお誕生日のメッセージや「いいね」を繰り返す意味がわからない。
根拠はなくても、その「信頼感」だけが「まちづくり」のベースにあるかもしれない。だからこそ「信頼感」が大切なのだろうと思う。
誕生日をすぎて、勝手にパソコンの前で思いつくままに手を動かしていたらこんな文章になりました。(fuku)

イラン日記2 旅の準備

イランを訪れる時、女性に限りますが、絶対に忘れてはいけないものがあります。

最近、日本でもイスラム教の人を見かける機会が増えましたので、おわかりの方も多いでしょうが「スカーフ」です。

外国人旅行者であっても、イラン国内の公共的な場では、スカーフで髪を隠すことが必須です。イランでは、ペルシャ語で「覆うもの」という意味の「ヘジャブ」と呼ばれています。

1979年のイラン革命直後は、前髪が少しでも見えることさえ許されない状況だったと聞きました。しかし、私が訪れる頃にはそんなに厳しい雰囲気はなく、頭上の髪のおだんごにカラフルなスカーフをひっかけ、前髪は丸出しの若い人も見かけました。

私はイランでスカーフを巻くのに抵抗がないばかりか、どちらかというと楽しんでいます。暑い日射し避けになるし、包まれているような安心感もあるし、なんといっても異国情緒を楽しめるアイテムだからです。なので、家の中で家族や親しい知人同士になるとスカーフを取る人が多い中、私はスカーフを積極的にとらなかったりするわけです。そうすると、「スカーフは暑くてジャマでしょ、だからとっていいのよ」と声をかけられます。慣れない外国人への気遣いもあるのでしょうが、実はこのスカーフ必須をよく思っていないイラン女性が多いように感じています。

日本に留学や滞在したことのあるイラン女性たち何人かに、「日本滞在中、スカーフはしていましたか?」と聞いてみましたが、「していなかった」との反応が意外に多いからです。イランでは、毎日のお祈りを欠かさないような人であっても、日本ではつけないという人もいました。

最近、ヘジャブ強制着用に反対する動きもあるとニュースでみました。必須ではなく、選択できる時代も近いかも知れません。

 

さて、スカーフ。

イランの空港に飛行機が到着し、シートベルトを締めるサインが消えると、一斉に乗客が荷物をおろしだします。そして女性たちは国籍を問わず手荷物からスカーフを取りだし、思い思いの巻き方で頭を覆います。

「あー、イランに着いたな」と思う瞬間です。

という訳で、機内を出たらスカーフ必須。イランに行かれる方、スカーフは機内持ち込みを忘れずに!(miya)

「長すぎた入院」

福永は、地元で社会福祉法人うるおいの里の評議員をしています。
そこの理事長から教えていただき、NHKのETV特集長過ぎた入院を見ました。

日本の精神医療の現場では、1年以上の長期入院患者が18万人、5年以上も10万人いて、OECD諸国の中でも桁違いに多いそうです。

福島原発の事故をきっかけに避難区域の病院に入院していた患者が退院し、改めて別の病院で診察したところ、本当に入院が必要と判断された患者は40人のうち、2人くらいだったとのこと。中には軽度の知的障害はあるものの、全く病気ではない方もいました。

背景には、日本の精神医療が患者の隔離政策を長くとってきたこと、病院の経営の問題、偏見による家族や社会の受け入れ体制が整っていないことなど、複雑です。

番組では、40年近く入院していたという方の退院後の生活を追っています(入院は全く必要ない状態だったという)。登場する「患者」の方々の退院前と退院後で表情がまったく違うこと、「自由はいいなあ」というつぶやきが象徴的だです。

日本では国連から人権侵害との指摘をうけて2005年に入院医療中心から地域生活中心へと大きく舵を切ったといわれていますが、実態はなかなか進んでいません。

たしかに昔は「先進」といわれている地域にも差別はあったはずです。しかし、あわせて、イタリア映画むかしMattoの町があったを見るとイタリアが1978年、バザーリア法を制定して精神医療の改革に取り組んだ様子がよくわかり、その40年の差にため息が出るのです。 

ものづくりのまち

 プレイスでは、住工共生まちづくりの支援をしています。世田谷には58.7ヘクタール(区面積の約1%)の「準工業地域」がありますが、その中で最大の準工業地域があるのが桜新町です。

桜新町を中心に、ものづくり事業者、町会、商店街、昭和女子大などが連携して、まちづくりに取り組んでいます。

「ものづくりのまち」を地域の方に知っていただくために、昨年(2017年)「準工業地域事業書マップ」を改定しました。

みなさんは「夜桜四重奏(ヨザクラカルテット)をご存知ですか? 桜新町を舞台にした人気のマンガ&アニメで、昭和女子大の学生さんから、せっかくマップをつくるなら、そのキャラクターを活用できないか、というアイデアが出されました。

 

ダメ元で作者のヤスダスズヒトさんに問合せしたところ、なんと快くご協力していただけることになり、夢のコラボが実現。今までにない素敵なマップが出来上がりました。

桜新町準工業地域事業所マップ「ものづくりのまち」

これからワークショップに行ってきます

私の友人である大学の先生が、エコロジカル・デモクラシー財団を立ち上げました。

「エコロジカル・デモクラシー」とは、エコロジー(自然)とデモクラシー(社会)を連関させ、一緒に考え、現実のまちづくりや地域づくりを実践していくことを目的にしています。

 

その財団の事業でRandolhp. T. Hester著「Design for Ecological Democracy」をその先生と読むという講座があります(有料)。

 

約5カ月にわたって、毎週送られてくる日本語訳を読んで、その感想をメールで送ると、それについてのコメントがもらえます。途中、イランの出張もあり、かなり大変な講座でしたが先日、無事修了することができました。

 

後で自分の感想を読み直すと、あれ、こんなこと書いたんだ、という文章に出くわします。自分で言うのも変ですが、面白いのです。内容自体は自分で書いたことですから同意できることではあるのですが、いつも感じていることを「表現する」という行為によって、バラバラで漠然とした「思い」が同じ舞台に現れるのです。

 

「おお、君はこんなところで顔をだすのね。」と、知っている俳優が下手から現れてきて台詞を語り出すような感じです。相手役は、本の文章だったり、先生のコメントだったり、他の講座受講者の感想だったりします。相手の台詞にどう応えるか。自分が持っている語彙を総動員し、組み合わせて即興で対応します。でもそこで出てきた言葉は、自分が考えていたこと以上だったりします。

 

本を読んで、誰かが読むことを想定して感想を書き、そのコメントを確認して次の文章を読む。途中には同じ講座に参加している人との交流会もあります。このような過程で、自分でも思わぬ文章を書くことがあるのです。この歳になっても変化することがあるとわかります。

 

このようなプロセスそのものが「議論」であると実感しました。

 

今日はこれから世田谷区でユニバーサルデザインの意見交換会です。

ワールドカフェという方式で、初めて会う方々とも意見交換をします。

短い時間ですが、また新たな体験が待っているかもしれません。ワークショップは、仕事としてはいつも緊張します。それは「即興劇」のように、自分の力量が如実に表れるからだと思います。そして少し楽しみでもあるのはその中での「自分の変化」というものを期待しているからなのだと思います。

あけましておめでとうございます

今年もどうぞよろしくお願いいたします。皆様にとってすばらしい1年になりますように。

「『エコロジカル・デモクラシー』を実践的に読む」勉強会に参加しました

2016.9.28

エコロジカル・デモクラシー財団(設立準備中)が主催する

「『エコロジカル・デモクラシー』を実践的に読む」勉強会に参加してきた。

 

とても刺激的で、脳の中に新しい空気が送り込まれたような2時間だった。

 

『エコロジカル・デモクラシー』はアメリカのプランナーRandolph T. Hesterの著書である『Design for Ecological Democracy 』を東工大の土肥さんが翻訳し、鹿島出版会から来年7月に発行予定の本である。

 

「実践的に読む」というお題どおり、エコロジカル・デモクラシーという新しい概念の理解を促すために、三つの実践的な取り組みが紹介された。

 

面白かったのは、事例の選定である。

 

一つは、アメリカ、ロサンゼルスでの自然公園再生の取り組み。

 

一つは、世田谷での取り組みで、切られてしまった街の木(普通はゴミとして処分される)をものづくりの素材として活用する「まちの木をいかすものづくりの会」

 

そしてもう一つは、人が直面した身近な人の死や喪失をグリーフととらえ、それに寄り添う活動をする「グリーフサポートせたがや」の取り組みである。

 

L.A.の事例は、郊外の自然公園整備にあたり、住民投票により建設中のハイウェイを中止し、市が買い取ってマウンテンライオンを呼び戻すほどの自然環境を再生させたとのことである。

 

市民の理解を得るために、ダウンタウンの高校生を対象としたエクスカーションを実施して賛同者を広げていった。その活動はダウンタウンの荒廃した資材置き場を公園に再生する取り組みに展開していったという。

 

日本人からみると妬ましい程のダイナミックで民主主義の見本のような方法はとても「アメリカ的」に見える。

 

勉強会ゲストの饗庭さん(首都大学東京)は、L.A.の取り組みに対して、アメリカという社会的な基盤があって成立したもので、日本にそのまま当てはまるのか、とあえて指摘しており、それは私もそう感じた。

 

一方、日本の二つの取り組みは少し違っている。

身近な「自然」と「社会」との関係を構築するために、個人レベルからはじまって周囲の仲間を巻き込んで活動を続けているささやかな取り組みである。

 

「まちのも」はそこにあきらかに自然の要素である樹木が介在するので理解しやすいが「グリーフサポートせたがや」は良い意味で混乱した。

 

そこで私が気になったのはエコロジカル・デモクラシーの基本にある

 

自然を直すと社会が治る

社会を直すと自然が治る

 

という考え方である。

 

この「直す」という表現が気になった。

 

気になったというのは悪い意味ではない。文字通り、気になったのである。

何だろう。何をもってして直すというのだろうか。

 

そこで、あらためてグリーフサポートの取り組みを見ると、

まちの中には「かなしみ」があきらかに存在する。それを個人レベルで押し込めておくことはその人個人の損傷であると同時に、今の社会のさまざまな問題の根源にもなる。閉じこめられた「かなしみ」はある時周囲への憎しみや怒りという負のエネルギーとなって噴出してくる。

 

「かなしみ」の存在を認め、そっと見守り、支える。

このことによって「かなしみ」は「かなしみ」としてそのままに、しかしコミュニティで共有できる問題として次第にその社会に溶け込んでいく。

 

まちの木は、切られてしまえばゴミである。

まちの木に込められた人々の「想い」の行き場はどこにもない。

道具や家具となって再生された素材としての木は、人々の生活を豊にすることによって、再びその存在が社会の中に居場所が与えられる。

 

このことを「直す」「治る」と表現することはものすごく共感できる。

これらの事例が「エコロジカル・デモクラシー」というのは、ものすごく共感できる。

 

L.A.の事例も大きな意味では、自然の一部としての人、モノ、社会を再度見直すということでは同じなのかもしれない。

しかし、その規模、支える社会の仕組みが大きく異なっているので、その理解が(私には)まだ追いつかない。

 

【今後さらに学びたいこと】

ここで「アメリカ的」「日本的」あるいは「世田谷的」ということをもう少し考えてみたくなった。

 

私の考える日本的は、日本という場所で行われている活動という意味である。

世田谷的ということも同じで、世田谷という場で行われる活動は、すべて「世田谷的」である。これはあたり前で、世田谷という風土で、世田谷に住む人の活動はすべて「世田谷的」であり、それを何かの言葉で抽象化することに意味があるかどうかが、よくわからない。

 

しかし、事例にもあったように、自然と人とものの関係をひとつのサイクルの中に整合させるという考え方は、もしかしたら「日本的」なのかもしれない。

それを私は「成仏」と表現したい衝動にかられる。これはいささか唐突で、ほとんどの人に理解されないだろうが、ここで言う「成仏」は宗教的な厳密性はともかくとして、私は「人や物を自然の摂理の中に回帰する」という意味で使っている。

 

社会を支える制度が彼我で異なることを「単に」と表現してよいのだろうか。そこには考え方の根本の違いがあるのか、あるいはないのか・・

 

次にもう少し勉強したいと感じたのは

Randolphの言葉として土肥さんが紹介した「公正さ」である。

 

ある場所の快復は社会全体で担い、その成果も共有すべきものであり、限られた人のためのものであってはならない。

 

しかし、私自身を振り返ってみると、身近なコミュニティしか実感できないという事実がある。半径10mとはいわないが、100m程度のコミュニティは実感できても、10km離れたコミュニティを実感することは難しい。

その範囲はどこまでなのだろうか。全人類というのは、理念ではあっても実感ではない。

 

さらにもうひとつは「デザイン」である。

後半にすこしその話題になったが、もう少し突っ込んで議論してみたい。

 

饗庭さんは、日本の都市における場のデザインのあり方として

「何の変哲もない家の扉を開けると新しい世界が見える」と表現していた。

 

コミュニティを細分化していくのは「日本的」といえるのかもしれない。

タコツボ化していくことは、そこで暮らす人には楽かもしれないが、社会全体の活性化にはつながりにくい。

その特性を活かしつつ、そこから再度外に広げて行くために、どんな「デザイン」があるのか、興味はつきない。

 

最後に、

この場はものすごく「教育的」であると感じた。

世田谷の事例を紹介したのは土肥研の大学院の学生で、よく調べ、考えられたプレゼンだった。会場に若者が多かったことも、そう感じた一因かもしれないが、若い時にこのような知と実践の最前線にいられる学生は羨ましい。

このことが幸運であるということを彼らが実感できるのはもう少し先かもしれないが。

 

ご機嫌まちづくり 地形の魅力

写真は相鉄線二俣川駅付近から。相鉄線は谷沿いに走っていることがわかる。駅周辺は再開発が進み、地形の変化はますますわかりにくくなりそうだ。

TUDCの原稿用に増補しました。(2016.10.2)

 

最近、仕事で横浜に行くことが多い。(今は横浜を通り越して大和市のファミレスでこのブログを書いている)

横浜は地形が複雑で、起伏に富んでいる。

UDの視点からは問題だが、人が住む上で本来起伏は悪いことではない。

 

その昔、ここに住み着いた人々は高いところから見晴らしが良い一方で、中腹なら身を隠せる。

水や植物の多様性もあったはずだ。そういう地形をうまく活かしながら、長く住み続けてきた。

 

地形が人々の意識に影響を与えないはずがなく、日本の起伏に富んだ地形と温帯モンスーンの湿潤な気候が私たちにどう影響してきたか、素人ながらちょっとした思考の遊びとして想像を広げてみるのも面白い。

 

⑴土木的センスが高い

地形が複雑な場所に住み農業を営むためには、地形を読み、活用する技術が発達しただろう。

 

⑵仲間うちのルールの厳守

小規模な水系、沢に沿って集落が発達しただろう。水を使う仲間の間では使い方や分配のルールが厳密になる。

 

⑶排他性と組織的コミュニケーション能力の不足

ひとつの水系や沢は小規模の範囲で完結し、他のエリアとのコミュニケーションは基本的には少なくなる。逆に自分のテリトリーは厳密に守る必要がある。

 

⑷勤勉で粘り強い性格の醸成

地形が急峻で降水量が多い地域は自然災害には弱くなる。自然を畏れる意識が生まれると同時に、自然災害を受け入れて修復、復興を日常のこととして受け入れる意識も生まれただろう。

 

今のまちの中では、地形を感じることが本当に少なくなった。

先にも書いたが、傾斜や段差はUDまちづくりには解決すべき課題となっている。

 

しかし、地形の変化はその地域の歴史的背景とも重なって、豊かな個性を生むことも確かである。移動の方法が多様になった現代において、もっと地形をうまく活用し、UDの視点からも対応できるまちづくりが進められたらよいな、と考えている。</div><div><br><br>[#IMAGE|f0043477_12190561.jpg|201607/17/77/|mid|375|500#]<br>写真は相鉄線二俣川駅付近から。相鉄線は谷沿いに走っていることがわかる。駅周辺は再開発が進み、地形の変化はますますわかりにくくなりそうだ。<br><br></div>

ご機嫌まちづくり まち中での出会い

NPO法人TUDC(東京ユニバーサルデザインコミュニケーターズ)の会報用の記事を転載します。

 

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打ち合わせに急ぐ私が乗ろうとしたタクシーの運転手さんは、路肩に駐車したまましばらくの間携帯電話で話しをしていて、私に気づくのが遅れたようで

「申し訳ありません、離れた息子から久々に電話があったので」

と言って、タクシーのドアを開けた。

 

「お客さん、建築関係の方ですか?」

移動中に、職業を尋ねられた。

「いや、建築ではなく、まちづくりの仕事をしています」

私が持っている大きな図面用の筒を見て、そう思ったらしい。

「お客さん、最初からずっと今の仕事をしてきましたか?」

「いや、もとはデザインの大学を出たんですけど、仕事はちょっと変わったところに入りました」

「でも、大きく言えば、同じ方向ですよね」

「まあ、そうですね。」

「挫折なく、きたんですね」

「挫折ですか? いやあそんな順調というわけではないです。途中止めようと思ったこともありますよ。でも、結局この仕事でやってます。」

 

タクシーの運転手さんはいろんな人を見ている。私をなぜか、しっかりした職業の人と思ったそうだ。

「さっき電話していたのは、息子なんです。大学生なんだけど、ちょっと挫折しちゃったみたいで。久々に向こうから電話があったので、すみませんでした」

「息子さん何をやっていらっしゃるんですか」

「京都で大学生をやってます。数学が得意で、大学に入るまでは全国でもトップクラスの成績でした」

「優秀なんですね。大学はどちらですか」

「京都大学です。でも、大学に入ったら上には上がいる。数学者になりたかったのですが、自分には無理ではないかと思い始めたらしいです」

 

「すごい話ですね。運転手さんも何かやってらしたことがあるんですか」

そんな優秀な息子さんがいるタクシーの運転手さんとは何者だろうか、と思って聞いてみた。

「実は私も以前北海道大学で数学を教えてたことがあります。大学をやめて小さな商社をやってましたが、リーマンショックを機に、まだ体力があるうちにと思い、会社をたたみました」

「ほお」

「小金があるので、いつか事業をと思っていたのですが、タクシーの運転手も真面目にやってれば食べていけます。気が付いたら10年運転手やってます」

「なんかすごい話ですね」

「私も模試レベルでは全国でトップとったこともあります。でも数学者になるのはレベルが違います。息子は私よりも数学のセンスはあると思うのですが、難しいみたいです」

そんな話をしているうちに、目的地に到着したので、お金を払ってタクシーを降りた。

 

まちの中にはまたまだいろんな楽しさが溢れている。

 

たまたま隣に居合わせた人、飲食店で相席になった人、バス待ちをしてている人。海外に行くと、気さくに話しかけてくる人が多い。

本当は、短い時間でも知らない人との会話を楽しめると良いのだけど、なかなかうまく話せない。面白い話ができる機会を失しているかと思うとちょっと残念に思うのである。

 

ご機嫌まちづくり まちづくりの中の時間軸

以前書いたブログの記事を、TUDCの会報用にリライトしました。

 

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だいぶ前のことだが、脳科学者の茂木健一郎さんがTwiiterでちょっとめげていたことがあった。

 

Facebookのユルさが不満だったが、Twitterのスピード感に疲れてくると、ある意味マイナーな私的領域、概念的なことをゆっくり育むために、facebookの暖かいコミュニティが必要だと感じる、というような趣旨だった。

 

ああ、よほど嫌なことがあったんだなあ、と思ったが、その時に茂木さんが、Twitterのスピード感を「市場性」という言葉を使って表現していたのが印象的だった。

 

Twitterが「市場性」でFacebookが「関係性」だ、というような短絡的なことを言いたい訳ではないのだが、この二つの媒体の違いは、少しわかったような気がした。

 

時々、第三者からものすごい負のエネルギーをぶつけられてめげそうになることがある。

そういう人の特徴は、損得や効率、短時間での成果、勝ち負けにこだわるということにあるような気がする。

 

攻撃する相手は誰でもよく「私はそう思う」ではなく、「(一般的に)お前はおかしいだろ」というように相手を追いつめていく。

 

「私」がなくなり、匿名性を帯びてくる。

匿名の関係の中で、短時間のスピードあるやり取りで時間をどんどん凝縮し、即効性のある成果を出していく。

 

これを「市場性」だというと反論する人もいるかもしれない。

しかし、市場の本質は時間の短縮と「誰がやっても同じ」という普遍性にある。

このようなやり方を刺激的で面白いと感じる人がいることは事実だろう。

 

でも、人の精神は本来、そういうことに長くは対応できない。

少なくとも私は、そういうことに必要以上のエネルギーを費やしたくない。

 

もう少し身体的な、その人の顔が見えるところでゆっくりとした「関係性」を組み立て、その中から何かを生み出していくことに時間を費やしたい。

 

「時間軸」という概念があるかないかは、まちづくりの中でとても重要なポイントである。

 

学生時代、先輩が後輩におごるという体育会的ルールがあった。(今も吉本はそうらしい)

後輩は先輩になると、またその時の後輩におごる。

これを聞いた私の兄は、なんという非効率なことをやっているのかと言った。

 

おごってもらっても、どうせ後で後輩におごるなら、割り勘でその場で処理した方がよほど合理的ではないか。

お金の流れだけみればそうだろう。

 

でも、ある人がおごってもらい、おごられた分を次の世代におごる流れの中には、お金以上にそこに一つの関係性や流れができる。

おごってもらった人と、おごられた人の関係は、時間を超えて別の人につながっていく。

だから何なのだ、と言われても困るが、この流れが大切なのではないかと思う。

 

ある出来事がその人にどのように影響を与え、どう熟成されて変化していくのか。正直それはどうなるのか誰にもわからない。

 

まちづくりでもそれは同じである。ある動きが、そのまちにどのように影響を与えるのか、ある程度の仮説はもちろんあるけれども、最初からはっきり成果がわかってやっているわけではない。

 

あるインプットが、どこかで熟成されて、思わぬ成果となって現れるかもしれない。

インプットから得られる成果を「待つ」ことがまちづくりの基本ではないかと思うのである。

 

ちょっと理屈っぽくなったけど、このわからなさを「面白い」と思えるか「じれったい」と思うかは大きな違いであると思っている。

ご機嫌まちづくり まちのトラブル解決策

NPO法人東京ユニバーサルデザインコミュニケーターズ(TUDC)のメールマガジンに寄稿した文章を転載します。

 

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ご機嫌まちづくり (2)まちのトラブル解決策

 

タイトルとはうらはらに、最後まで読んでも解決策は書いていません。あらかじめお断りしておきます。

 

ある商店街での話。

 

そのお店は輸入物のしゃれた小物を扱っていて、店長さんはとても自分の商品に誇りを持っている。

隣には昔からの飲食店があって、そこのおかみさんは気のいい人なんだけれど、マイペース。

 

飲食店のおかみさんは、店の前の歩道の植え込みを掃除したり、小さな鉢植えを置いたり、きれいにしているけれど、長い間に自分のスペースと公共のスペースがごっちゃになってきて、掃除道具を置いてしまう。

いつもきれいにしているのだから、そのくらいは当然だと思っている。

 

おしゃれ小物の店長はそれが気に入らない。公共のスペースを個人的に使うとは何事か。こっちは商品を厳選して、店構えにも気を配り、お客さんもセンスの良い人がやってくる。人の店から見えるところに掃除道具を置くなんて異常なことだ、営業妨害だ。だからいつも不機嫌。

 

それで、つい、隣のおかみさんに言ってしまった。「ここに掃除道具を置かないでください。」

 

それを聞いたおかみさんは切れた。

後から来て何を言う。これまでもずっとこうして来たし、まちをきれいに保っているのは私だ。あんたがまちに何をしてくれたと言うのだ。

それからはむしろ、これ見よがしに掃除用具を置くようになってしまった。

 

公共の空間を私有化してはいけないというのは正論で、いわばグローバル・ルール。

なあなあかもしれないが、経緯と実績があるというのは、いわばローカル・ルール。

 

この二つが混在すると、だいたい問題がこじれてくる。

お互いが違う土俵で考えているので交わるところがない。

 

おしゃれ小物の店長は、クレームとして商店会長にそれを伝える。

「このまちのモラルはどうなっているんだ」「このような状況がつづけば、訴える」

「飲食店のおかみさんにはマナーを伝えないといけない。なぜ地域で話し合わない」

 

話し合いの場は、町内会だったり、商店会だったりするだろうが、

そのような場をつくり、維持してきたのは地域のコミュニティである。

 

おしゃれ小物の店長はそういう場を誰かがつくって、維持してきたことにまでは気が回らない。

だから、町内会や商店会には加入していない。ムダだと思っているが、クレームの行き先にはなる。

 

さらに、口では「地域で話し合ってくれ」と言うが、まさか話し合いの場で

「今までの経緯もあるので、掃除道具を置くくらい目をつぶりなさい」

と言われる可能性があることは全く考えていない。「話し合え」イコール「止めさせろ」である。

 

仮に、掃除道具が片付けられたとしても、また次のアラが見えてくる。

公共の場を私的に利用している、という根本が気に入らないのだから、当然である。

 

一方のおかみさんは慣習による「既得権」は絶対だと思っているから、これまた話し合いでは自分に軍配があがらなければならない。

 

つまり、第三者の裁定によって目の前のことを処理しても根本の解決にはならないのである。

 

訴訟社会のアメリカなら裁判だろう。部族社会なら族長の裁定があるかもしれない。

でも、それはお互いが「そういう手続きならとりあえず納得できる」という前提があるからできることである。

 

今の日本では「コミュニティの中で話し合いによって解決すること」そのものが物事の解決の手続きとして「良し」とする人と「嫌だ」という人に別れはじめている。

 

行政へのクレーマーの激増はそういうことだろう。

町内会も商店街もあえて「話し合い」をしようとしないのは、それを感じているからだろう。

 

今のまちづくりでは、トラブル解決策として「コミュニティによる話し合い」が無くなり、無くなったままでそれに代わる手法を見い出していないように思う。

 

コミュニティによる話し合いは「閉じられた社会」の中ではうまく機能してきた。

しかし、善し悪しはともかく、それではやっていけなくなっている。

 

ひとびとの気持ちは「閉じられた社会」の中でローカル・ルールでうまくできないかという人と、いろんな価値観がある中でグローバル・ルールでクールにいくべきだ、という人に別れている。そして、どちらにしても極端に走る。

 

だから一度問題がこじれると「より良く解決する」ことがとても難しい。

「今年の盆踊りは騒音の苦情により中止」になってしまう。

 

これは解決策ではない。

 

盆踊りを毎年楽しみにしていた人の気持ちはどこにも反映されていない。

解決策は、当然その中間にあるはずである。

 

おそらく、私は「まちづくり」でそんなことに取り組んでいるのだろうな、とは思うけれども、具体的なアイデアはまだ持てないでいる。

ご機嫌まちづくり

NPO法人東京ユニバーサルデザインコミュニケーターズのメールマガジンに投稿した内容です。

 

 

<まちづくりとは何だろうか>

このところ、あらためて「まちづくりとは何か?」を考えている。

ハードな「街づくり」はまだ分かるけれど、ひらがなで「まちづくり」という時に人が考える内容は千差万別である。

 

まちには、いろんな立場の人がごっちゃに暮らしている。

そんな「まち」を、誰がどのように「つくる」のだろうか。

 

これが当面の私のテーマである。

 

<まちはいざという時のセーフティーネット>

生まれた場所でずっと住み続けている人がいる。一方で、自分でそこを選んで住んだという人もいる。

 

日本では幸いなことに「まち」は選んで住むことができる。

なんとなくここが気に入った、と思って住む場所を選ぶことができる。

近くに公園があったり、にぎやかな商店街があったり、雑誌で見た「住んでみたいまち」の上位に選ばれているエリアだったり、選ぶ基準は人それぞれだろう。

 

でも、お気に入りの場所を選んだとしても、近所の人や地域の人を、個別に選ぶことはできない。

気に入った人とばかりつきあっていくわけにもいかない。

「ご近所」は、何かあったときの運命共同体になる可能性が高いからである。

 

まちというのは、人の生活の基盤である。良い時ばかりではない。

危機になった時にも、そのまちで住み続けていられなければ、まちの意味がない。

一番わかりやすいのは震災の時だろう。

 

自分だけ、家族だけでは乗り越えられない危機に直面したときにも、まちはセーフティーネットとして機能しなければならない。

村八分はの残りの二分は、火事と葬儀であることはよく知られている。昔の人も地縁から完全に排除することはしなかったのである。

 

そのようなまちをどうつくっていくのか。

これは永遠のテーマである。

 

<ご機嫌度数でまちを測る>

話は少し変わる。

良いまちとは何か、という指標にはいろいろあるだろうが「ご機嫌度数」というものを考えてみた。

 

そのまちに住む人の、ご機嫌はプラスに働き、不機嫌はマイナスに働く。

その合計点で、まちの「ご機嫌度数」がわかる。

これが、もし数値化できたら面白い。

 

少数のお金持ちがご機嫌であっても、他の多くの人が不機嫌なまちは、あまり住みたくない。

お金持ちのご機嫌度数が高いかどうかもあやしい。いつも財産を狙われていると考えているかもしれない。

 

ご機嫌も不機嫌も、人に伝播する。ご機嫌度数の高いまちは、さらに度数が高まる傾向にあるだろう。

 

あれ、何かご機嫌度数が下がってきたぞ・・注意報発生だ。みんなでお祭りでもやろうか。

みんな楽しそうだ。度数が上がってきた。

しまった、「うるさい」って、沿道の人のご機嫌度数が下がっちゃった。

 

これって「ご機嫌度数」という指標はなくても、結構普段からやってませんか。

 

<無関心はご機嫌度数を下げる>

人は常にご機嫌ではいられないが、いつも不機嫌でもいられない。

だから、皆ががお互いのご機嫌度を上げるようにして、総体としての度数を上げことが必要だ。

基本は、自分のご機嫌度を上げながら、他の人のご機嫌度も上げていくこと。

人の顔色ばかり見ていることになれば「私のご機嫌度」が下がってしまう。

 

一人の人が感じられるご機嫌度の上限はたかが知れている。

本質は、食って、寝て、遊んで、働いて、その中での範囲である。

だから、まち全体のご機嫌度数を上げる一番の方法は、突出したご機嫌さんを一人つくるより、

できるだけ多くの人のご機嫌度を全体として底上げしていくことであることは、感覚的には異論がないだろう。

 

そして、実は、機嫌が良いか悪いかは、基本的に他者との関係においてである。

人は他の人に存在を認めてもらうことでしか、自分の存在を実感できない。

異論がある人もいるかもしれないが、私はそう思う。

一番まずいのは、他者に対する、まちに対する「無関心」だということがわかってくる。

 

<ご機嫌まちづくり>

まちには生まれたばかりの赤ちゃんから100歳を超える高齢者まで色々な人が住んでいる。

色々な能力や特徴の人が住んでいる。全員がまちのフルメンバーである。

その「ご機嫌度数」を総体としてどう上げていったら良いのだろうか。

TUDCのメールマガジンの場を借りて、こんなことを考えていけたら、と思う。

あけましておめでとうございます

からすやま地域の力を集める会

烏山地域の精神障害者家族会「あかね会」の機関紙に、地域活動を皆で考える「からすやま地域の力を集める会」についての寄稿を頼まれました。以下、その全文です。

 

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「からすやま地域の力を集める会」

 

烏山区民センター前の広場は、地域の宝物です。週末や休日になると、いつも何かのイベントが行われています。イベントがなくても、まちのまん中にあの広々とした広場があって、ベンチに座っている人や通り抜けの人が歩いている姿を見るだけで、何だかほっとします。

 

この広場で年に2回「青空ワークショップ」が開かれます。ワークショップというのは、少人数のグループで自由に意見を出し合ってアイデア出しや合意形成をめざす会議の方法です。それを青空の下でやるから「青空ワークショップ」といいます。

 

何の会議をしているかというと、「烏山を住みやすいまちにするための方法」です。いったい、誰がそんなことをやっているのでしょうか。会議をしているのは、地域に住む人や働く人たち。そして、その運営をしているのが「からすやま地域の力を集める会」です。

 

烏山のまちを住みよくする、などというのは行政がやるべきことではないのか、という声が聞こえてきそうです。もちろん、行政の役割は大きいのですが、行政だけではできないことがたくさんあります。例えば、地域に住む人が知りあい、仲良くなること。これはいくら行政が頑張っても、地域の人たち自らがそうなりたい、と思わなければ何もできません。

 

まちが住みよくなるためには、たくさんの人が知りあうことが大切です。隣に誰が住んでいるのか、どんなことをしているのか、全く知らないというのでは、お互い何も協力できません。例えば、災害の時のことを考えてみてください。一人きり、あるいは自分の家族だけでは、できることは限られます。昼間、都心に働きに行っている人が家族の安否を確認したくても電話は不通、帰宅もできない。発災直後は消防や行政は救助で精一杯です。そんな状況で頼りになるのは近所の人だけです。

 

もちろん災害時だけではありません。イベントをしたいという時にも、音楽好きな人、焼きそばを焼くのがうまい人、いろいろな特技を持った人が集まると思わぬ楽しいイベントができあがります。

 

「からすやま地域の力を集める会」は、烏山地域に誰もが気軽に集まれる場所があったらいいな、という思いを実現するために、文字通り「地域の力を集める」ために平成22年にスタートしました。千歳烏山駅南側の昭和信用金庫の移転に伴い、駐車場をお借りして地域の拠点づくりをしようと助成金を獲得し、実現一歩手前までいきましたが、最終的には信用金庫側のやむを得ぬ事情で断念しました。

 

拠点はできませんでしたが、その時のメンバーから、みんなが集まって智恵を出し合うしくみは続けていきたいという意見が多く出され、この会を続けていくことになりました。継続にあたり、地域の力を集めて何に取り組むのか、幅広く地域の方から意見を聴くために始めたのが「青空ワークショップ」です。

 

最初の年は試行錯誤でしたが、テントは「あかね会」からお借りすることができました。通りがかりの人に興味をもってもらうためにバンド演奏をしようというアイデアは、地域で活動する「芦花公園幸せの野音の会」の東日本大震災支援コンサートとの共催という形で実現しました。

多くの人の協力で実施にこぎつけたワークショップでしたが、こうしたひとつひとつ問題を解決していく取り組み自体が「地域の力を集める」ことになるということを実感しました。

 

最初の青空ワークショップで出された意見は「駅前の駐輪をなんとかしたい」「災害時に安全なまちをつくりたい」「魅力ある商店街をつくりたい」「寺町の資源を活用したい」といった内容でした。このような議論を繰り返すうちに、

「防災こそが地域の力を集めて行う喫緊の課題だ」という意見が出され、しばらくは防災について議論することとしました。

 

それでは、昨年の「青空ワークショップ」の様子を見てみましょう。

 

平成25年の最初の会は、8月4日でした。商店街の夏まつりは土曜日に終了、月曜日に片付けるので日曜日は1日ステージやテントがそのままになっているのを、商店街から「使っていいよ」と言っていただき、お借りすることにしました。簡単なことのようですが、商店街と地域住民の信頼関係があって初めて実現したアイデアです。これも「地域の力」です。

 

テーマは「私たちの災害対策」。趣意書からその目的をみてみましょう。

(以下引用)

災害時はおそらく、思いもよらないことの連続です。(中略)

私たちは日ごろからその時のことを考えておくことが大切ではないかと思い「青空ワークショップ 〜私たちの災害対策〜」を企画しました。

まちにはいろいろな人が住み、働いています。障がいのある人もいます。

いつか来る「その時」自分ならどうするのか。

烏山にいる人達が助け合って生きのびるために何が必要か。 

すべては想定できなくても、いろいろな立場の人が集まって、あらかじめ考えておきたい。なぜならば災害時に普段以上のことはできないからです。

今、この時期に烏山に関係する仲間で青空の下に集まり、お互いのことを知り、いっしょに災害時のことを考えてみませんか。

(引用ここまで)

 

この呼びかけに、住んでいる人だけではなく、「うるおいの里」や地域の事業所にも賛同していただき、幅広い人達が集まってきました。

 

青空ワークショップ当日のスタートは音楽と演劇です。音楽は「芦花公園幸せの野音の会」の提供、演劇は地域貢献型劇団「アクティングプラス」のみなさん。その後は、テントの下で活発な議論が繰り広げられました。テントの周りでは、餅つき、生ビールなども出店。さらに、地域の横断的なつながりをつくる「烏山地区連絡会」との共催で実施することもできました。

このような連携もまさに「地域の力を集め」た結果です。

この日の議論は模造紙にまとめられ、11月に実施する第2回でより深めていくことになりました。

 

11月23日(祝)、第2回「青空ワークショップ」は、世田谷区が主催するユニバーサルデザインワークショップの区民メンバーから多数の参加がありました。ユニバーサルデザインとは「誰もが使えるまちや環境づくりを進める取り組み」です。災害時に、例えば障がいのある人や高齢者など、誰もが安全に避難できるか、という視点が加わりました。

 

いろいろな意見が出された中で、やはり一番大切だという声が多かったのが、普段からのネットワークづくりでした。地域に住む人や働く人がゆるやかなつながりを持つことで、いざという時にも助け合えるということでした。

 

そうは言っても、世田谷のような都市型の住宅地では、なかなか普段のつながりがつくりにくい状況にあります。ネットワークづくりといってもどこから始めたら良いのか見当もつかない、という方がたくさんいると思います。

だからこそ身近なところで「できることから始めよう」という「青空ワークショップ」を続けていく意義があると思っています。

 

まちをよくする取り組みには終わりがありません。この活動がいつまで続くかわかりませんが、今年も8月3日(日)と11月22日(土)に「青空ワークショップ」を実施する予定です。また、月1回、定例会を開催しています。

 

この会には誰でも参加できます。みなさんも、ぜひ定例会や区民センター前広場に来て、気軽な気持ちでおしゃべりをして、知りあいをつくってみませんか。それが「地域の力」の第一歩なのですから。